月と太陽の合間に。
千尋が私の名を呼んだ。
コハク川、と。
そう。
私は、コハク川。
コハク川そのもの。
激しく雨が打ちつける。
草原に、線路に、そして湯屋にも。
明日には、一面に海が広がるだろう。
あの海を見て、驚いたのは、千尋。
可愛い、最初の妹分。
彼女を見送ってから、随分時が流れた。
変わらない、油屋の日常。
その中での変化といえば、皆が少しずつ歳をとることくらいだろうか。
リンは、雨の日の勤務が好きではない。
お客様は濡れて来られるし、出迎えをする姉さま方の機嫌も悪くなる。
湯屋全体が、いつもより更に慌しくて、とにかく気が張るのだ。
それに、カオナシも、雨に紛れてやって来たのだった。
その後の騒動のことを思うと、今でも身震いする。
雨上がりの海は、美しいと思うけれど、雨の日は嫌いだ。
昼間だというのに、薄暗く曇った空を見上げる。
「あ〜あ。ったく、かったりぃな」
風が強く、雲の流れが速い。
木製の窓の隙間から、ヒューヒューと大きな音を立てて、風は油屋の中へと入ってくる。
掃除用具一式が入った桶を抱えて、持ち場へ向かう途中、背後から声を掛けられた。
「リン!ハク様を知らぬか?」
「知りませんよ〜」
振り返ると、取り乱した様子の、兄役。
リンは、返事をすると、すぐにその場を去ろうとした・・・が、引き止められる。
「おまえ、ハク様を捜して来い」
「えぇ〜!あたいがぁ?」
毎日毎日、肉体労働でこき使われているのだ。
これ以上、雑用を言いつけられては堪らない。
しかも。
しかも、その雑用が、ハクに関することだなんて。
絶対に、お断りだ。
もともと、湯婆婆の手先だと思って、信用していなかった。
千を大事にしているようなので、少しは見直したけれど、好んで関わりたいとは思わない。
実際、千が帰って以降、特に親しくなったということもない。
リンにとっては、相変わらず万年無表情の厳しい上司だった。
「やなこった!蛙にやらせりゃ良いだろ?」
「とにかく、捜して来い。良いな?」
ずいっと、兄役はリンに顔を近づけた。
リンは、飛びのくようにそれを避けると、しぶしぶハクを捜し始める。
ところが。
いないのだ。
どこを捜しても、湯屋中捜しまわっても、ハクの姿は見付からなかった。
兄役の取り乱し様も、今となっては納得できる。
「手間かけさせやがって〜」
湯婆婆の命で、出かけているのであれば、その旨が上役には知らされているだろう。
その上役が、慌てて捜しているということは、無断でいなくなったということ。
仕事をしない者は存在できないのが、この世界の掟だ。
「千に会わずに豚にでもなりてぇのかよ!」
文句を言いつつも、リンがハクを捜す態度は、最初よりも熱心になっている。
面倒見の良い姉御肌の性分、とでも言うか、心配で放っておけないのだ。
リンは、散々油屋の中を捜し、最後にボイラー室へ向かった。
ボイラー室では、坊ネズミが、ススワタリたちと遊んでいる。
これも、千が来て以来の変化だ。
「お、おぅ、メシか?早えな」
釜爺は、たくさんの手を動かしながら、ちらりとリンを見た。
「わりぃ。メシはまだなんだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
返事はないものの、釜爺がリンの話を聞いているのは解る。
「ハク、見なかった?」
その一言で、釜爺も、坊ネズミも、坊のお守のハエドリも、ススワタリたちまでが、動きを止めた。
リンの口から出るには、あまりにも意外なセリフだったから。
「な、なんだよ。別に、オレが捜してるんじゃないぞ!いや、探してるけど、言いつけられて仕方なくなんだからなっ!」
「何も言っとらん。ハクが居ねぇのか?」
「湯屋中捜したけど、居ないしさぁ。ここにも来てないか・・・」
リンは、大袈裟にため息をついた。
ここにも居ないならば、次は外だ。
この雨の中、ハクを捜さねばならない。
「居なくなるなら、ちゃんと居なくなるって言えよなぁ」
天井を仰ぐリンを、坊はじっと見つめていた。
坊には。
心当たりがある。
ハクが行くところなんて、一つしかない。
千のところだ!
千に会いたい者同士、坊には解る。
でも、坊だって、会いたいのを我慢しているのに。
一人で会いに行くなんて許せないと思う。
先程までの、楽しそうな様子から一転、考え込んでしまった坊の変化に気付かないまま、リンはボイラー室から、外へ出た。
「うわ・・・」
リンは、いざ降り続く雨を目の前にして、言葉も無く立ち尽くした。
この中を、捜すのか・・・。
考えただけで、気が滅入る。
どうせなら、晴れた日に居なくなきゃ良かったのに。
それならば、サボリ・・・散歩のついでに捜してやったのに。
いつまでも軒の下に突っ立っていても、仕方がないので、リンは諦めて一歩踏み出す。
傘は差していない。
差しても、差さなくても結果は同じだろう。
そのくらい、雨は激しく降っている。
滑らないように、一歩一歩踏みしめて階段を上る。
上の方から、雨が流れて、さながら小さな滝のようだ。
そこを歩いているのだから、慎重にならざるをえない。
長い階段を上り終えて、くぐり戸を抜け、油屋の前に立った。
雨で周りが白く煙って、よく見えない。顔面に叩きつける雨が目に入る。
動くのを止めると、急に寒気がして、リンはぶるっと大きく震えた。
水を吸った髪や服の重さを、感じる。
庭をざっと見回しても、ハクの姿は見付からない。
「こんなところに、いるわけないか」
リンは一人ごちる。その声は、風にかき消されて、リン自身にも聴き取ることは出来なかった。
こうなると、橋の向こうまで行かねばならない。
お客様を迎えるまでには、まだ時間があって、誰も外へは出ていなかった。
薄暗い
こんなに捜しても居ないのだから、すぐに見付かるとも思えなかった。
どこまで捜せばいいのだろう?
すれ違いで、もう湯屋に戻っていたりしないだろうか。
そんな淡い期待を抱きながらも、リンは歩を進めた。
この橋を通るのは、何年ぶりだろうか、という思いが、ふと脳裏をかすめる。油屋に来てからは、渡ったことなどない。そして、その前のことは記憶になかった。
自分が何者で、どこから、どうやってここへ来たのか。何も判らない。
顔に張り付いた髪を剥がし、前方へ視線を送る。
雨のカーテンの向こうに、ぽつんと白い塊が見えた。
リンは、10メートルほど先の目標に向かって、駆け出した。
「ハクじゃん・・・」
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