シロイ・1

 月と太陽の合間に。
 千尋が私の名を呼んだ。
 コハク川、と。
 そう。
 私は、コハク川。
 コハク川そのもの。




 激しく雨が打ちつける。
 草原に、線路に、そして湯屋にも。
 明日には、一面に海が広がるだろう。
 あの海を見て、驚いたのは、千尋。
 可愛い、最初の妹分。

 彼女を見送ってから、随分時が流れた。
 変わらない、油屋の日常。
 その中での変化といえば、皆が少しずつ歳をとることくらいだろうか。

 リンは、雨の日の勤務が好きではない。
 お客様は濡れて来られるし、出迎えをする姉さま方の機嫌も悪くなる。
 湯屋全体が、いつもより更に慌しくて、とにかく気が張るのだ。
 それに、カオナシも、雨に紛れてやって来たのだった。
 その後の騒動のことを思うと、今でも身震いする。
 雨上がりの海は、美しいと思うけれど、雨の日は嫌いだ。

 昼間だというのに、薄暗く曇った空を見上げる。
「あ〜あ。ったく、かったりぃな」
 風が強く、雲の流れが速い。
 木製の窓の隙間から、ヒューヒューと大きな音を立てて、風は油屋の中へと入ってくる。

 掃除用具一式が入った桶を抱えて、持ち場へ向かう途中、背後から声を掛けられた。
「リン!ハク様を知らぬか?」
「知りませんよ〜」
 振り返ると、取り乱した様子の、兄役。

 リンは、返事をすると、すぐにその場を去ろうとした・・・が、引き止められる。
「おまえ、ハク様を捜して来い」
「えぇ〜!あたいがぁ?」
 毎日毎日、肉体労働でこき使われているのだ。
 これ以上、雑用を言いつけられては堪らない。

 しかも。
 しかも、その雑用が、ハクに関することだなんて。
 絶対に、お断りだ。

 もともと、湯婆婆の手先だと思って、信用していなかった。
 千を大事にしているようなので、少しは見直したけれど、好んで関わりたいとは思わない。
 実際、千が帰って以降、特に親しくなったということもない。
 リンにとっては、相変わらず万年無表情の厳しい上司だった。

「やなこった!蛙にやらせりゃ良いだろ?」
「とにかく、捜して来い。良いな?」
 ずいっと、兄役はリンに顔を近づけた。
 リンは、飛びのくようにそれを避けると、しぶしぶハクを捜し始める。

 ところが。
 いないのだ。
 どこを捜しても、湯屋中捜しまわっても、ハクの姿は見付からなかった。
 兄役の取り乱し様も、今となっては納得できる。
「手間かけさせやがって〜」

 湯婆婆の命で、出かけているのであれば、その旨が上役には知らされているだろう。
 その上役が、慌てて捜しているということは、無断でいなくなったということ。
 仕事をしない者は存在できないのが、この世界の掟だ。
「千に会わずに豚にでもなりてぇのかよ!」
 文句を言いつつも、リンがハクを捜す態度は、最初よりも熱心になっている。
 面倒見の良い姉御肌の性分、とでも言うか、心配で放っておけないのだ。
 
 リンは、散々油屋の中を捜し、最後にボイラー室へ向かった。
 ボイラー室では、坊ネズミが、ススワタリたちと遊んでいる。
 これも、千が来て以来の変化だ。

「お、おぅ、メシか?早えな」
 釜爺は、たくさんの手を動かしながら、ちらりとリンを見た。
「わりぃ。メシはまだなんだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 返事はないものの、釜爺がリンの話を聞いているのは解る。

「ハク、見なかった?」

 その一言で、釜爺も、坊ネズミも、坊のお守のハエドリも、ススワタリたちまでが、動きを止めた。
 リンの口から出るには、あまりにも意外なセリフだったから。

「な、なんだよ。別に、オレが捜してるんじゃないぞ!いや、探してるけど、言いつけられて仕方なくなんだからなっ!」
「何も言っとらん。ハクが居ねぇのか?」
「湯屋中捜したけど、居ないしさぁ。ここにも来てないか・・・」
 リンは、大袈裟にため息をついた。

 ここにも居ないならば、次は外だ。
 この雨の中、ハクを捜さねばならない。
「居なくなるなら、ちゃんと居なくなるって言えよなぁ」
 天井を仰ぐリンを、坊はじっと見つめていた。

 坊には。
 心当たりがある。
 ハクが行くところなんて、一つしかない。

 千のところだ!

 千に会いたい者同士、坊には解る。
 でも、坊だって、会いたいのを我慢しているのに。
 一人で会いに行くなんて許せないと思う。

 先程までの、楽しそうな様子から一転、考え込んでしまった坊の変化に気付かないまま、リンはボイラー室から、外へ出た。

「うわ・・・」
 リンは、いざ降り続く雨を目の前にして、言葉も無く立ち尽くした。
 この中を、捜すのか・・・。
 考えただけで、気が滅入る。
 どうせなら、晴れた日に居なくなきゃ良かったのに。
 それならば、サボリ・・・散歩のついでに捜してやったのに。

 いつまでも軒の下に突っ立っていても、仕方がないので、リンは諦めて一歩踏み出す。
 傘は差していない。
 差しても、差さなくても結果は同じだろう。
 そのくらい、雨は激しく降っている。

 滑らないように、一歩一歩踏みしめて階段を上る。
 上の方から、雨が流れて、さながら小さな滝のようだ。
 そこを歩いているのだから、慎重にならざるをえない。

 長い階段を上り終えて、くぐり戸を抜け、油屋の前に立った。
 雨で周りが白く煙って、よく見えない。顔面に叩きつける雨が目に入る。
 動くのを止めると、急に寒気がして、リンはぶるっと大きく震えた。
 水を吸った髪や服の重さを、感じる。
 庭をざっと見回しても、ハクの姿は見付からない。
「こんなところに、いるわけないか」
 リンは一人ごちる。その声は、風にかき消されて、リン自身にも聴き取ることは出来なかった。

 こうなると、橋の向こうまで行かねばならない。
 お客様を迎えるまでには、まだ時間があって、誰も外へは出ていなかった。
 薄暗い
 こんなに捜しても居ないのだから、すぐに見付かるとも思えなかった。
 どこまで捜せばいいのだろう?
 すれ違いで、もう湯屋に戻っていたりしないだろうか。

 そんな淡い期待を抱きながらも、リンは歩を進めた。
 この橋を通るのは、何年ぶりだろうか、という思いが、ふと脳裏をかすめる。油屋に来てからは、渡ったことなどない。そして、その前のことは記憶になかった。
 自分が何者で、どこから、どうやってここへ来たのか。何も判らない。
 顔に張り付いた髪を剥がし、前方へ視線を送る。
 雨のカーテンの向こうに、ぽつんと白い塊が見えた。
 リンは、10メートルほど先の目標に向かって、駆け出した。

「ハクじゃん・・・」  



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