そう長い時間待つこともなく、ハクは意識を取り戻した。
呼吸のリズムが変わり、ゆっくりと気だるそうに目を開ける。
起き上がろうとするが、自力では無理だった。腕に力が入らない。
仕方なく、ハクは枕に頭を預けた。
「・・・ここは?」
見慣れたものと違う天井に、そう言う声が擦れている。
誰に問うたわけでもなかったが、返事があった。
「釜爺んとこだよ」
リンが間髪入れずに答える。
「私は・・・どうしてここに?」
自分のおかれている状況が、まったく理解できず、ハクは呟いた。
「知らねぇよ。あんた、外に倒れてたんだぜ。覚えてないの?」
「外に・・・?」
ハクはリンの言葉を繰り返した。まだ内容を把握できていない表情だ。
「じいさんっ!ハク、目ぇ覚めたよっ!!」
長い6本の手を組んで、座ったまま居眠りしている釜爺の肩を、リンは揺すった。
「お?おぉ・・・気がついたか。そりゃ、良かった。どうだ?調子は」
「まだ、起きれないってさっ!」
ハクが答える前に、リンが言う。
「それで?事情くらい、話してもらおうじゃないの?」
リンは、両手を腰に当て仁王立ちして言った。
決して近寄っては来ないが、坊ネズミも聞き耳を立てている。
拗ねているのか、ハクに近寄ろうとしないのだ。
ハクは、気が進まなさそうに柳眉を寄せたが、リンの気迫とリンに助けてもらったという借りに、観念して言った。
「・・・ち・・・千が、溺れたのを感じて・・・彼女の元へと行っていた」
「えぇっ!千の所にっ!?」
リンは、これ以上ないほど驚いている。
坊ネズミは、無反応だ。
「あちらの世界へと行ったことで・・・身体に負担がかかったようだ」
「そ、そっか・・・。で、千はっ!?千は無事なのかよ?」
「心配ない」
ハクは、膠もなく言った。
あまりのそっけなさに、さすがのリンも、たじろぐ。
千と会ったと言うわりには、嬉しそうでもない。
まるで、触れて欲しくないように感じられる。
それ以上の問いを拒絶しているようなハクに、リンは何も言えなくなった。
沈黙を破るように、カランカランッと乾いた音を立て、札が上から落ちてきた。
釜爺に、湯の指定をする札だ。
湯屋が動き始めたということ。
ハクは、再び、起き上がろうとする。
今度は、首にも腹にも腕にも少しは意思が伝わって、ぎこちなくもなんとか起き上がる。
「何やってんの。まだ寝てた方が良いって」
寝かしつけようとするリンの手を振り切って、ハクは釜爺に言った。
「・・・仕事に戻ります」
「はぁ?」
答えたのは、釜爺ではなく、リン。
「・・・これ以上、おじいさんに迷惑をかけるわけにはいきません。色々とお世話になりました」
「重病人が、何言ってるんだよ!ほら、じいさんも止めろよ」
リンは、ハクと釜爺を交互に見ながら、怒鳴る。
「わしの言うことなんぞ、聞くようなヤツじゃねぇからなぁ」
釜爺は、頭をかいた。
「リン。手間をかけさせるが、上まで行く手助けをして欲しい」
ハクが言う。
いつもより覇気がないものの、落ち着いている。
普段の彼は、他人にものを頼んだりしない。
それがわかっているからこそ、リンは断れないのだ。
「〜〜〜わかったよっ!やれば良いんだろ、やればっ!!」
半ばやけくそで、リンは言った。
お客様の目に触れない油屋の裏側は、それほど磨きこまれているわけではない。
くすんだ色の廊下には、リンとハクの影がぼんやりと滲んで映った。
意識が戻ってからは、ハクは出来るだけリンに頼るまいとしているようだった。力の入らない足で、必死に身体を支えようとする。
リンは、ハクに貸している右肩を、彼が歩きやすいよう下げた。
あの豪雨の中を背負って歩いたのだから、今さら遠慮しなくても良い。リンは思うのだけれど、ハクがそうしないのは、おそらく彼の自尊心に傷がつくからだろう。
リンに背負われたことを知ったら、ショックのあまり自殺でもしかねない。
どうも、自分は面倒事に縁がある様だ。
リンは、ハクに気付かれないように、こっそりため息をついた。
騒ぎになるのを避けるため、誰にも見付からないよう、リンとハクはエレベーターに乗った。
リンは、以前同じように千を湯婆婆のところまで連れて行ったことを思い出す。
動いているエレベーターから顔を出したり、きょろきょろ周りを見回したり。あの時は、とろい子だと思ったものだ。その後、ちゃんと見直したけれど。
千が両親と共に、彼女が居るべき世界へ帰ってからも、ハクが彼女のことを想っていたことを、リンは知っている。
リンにとっても千は特別な存在だったけれど、おそらくハクにとってはそれ以上に。
ハク自身にも抑えられないほどに、千を想う気持ちは強かったはず。
傍で見ている自分にも伝わってくるほどに。
それが何故?
わけがわからない。
二人の間に何かあったのだろうか?
そうだとしたら、部外者のリンが口を出す問題ではない。
しかし・・・。
気になる。
が。
聞ける雰囲気でもない。
やきもきするばかりだ。
要らぬ面倒に付き合わされているのに、何も知らされない。
まったく。
損な役回りだ。
事情さえわかったなら、もっと気分良く手助けしてやるのに。
不意に。
辛そうに息をしていたハクが、口を開いた。
「・・・千尋には、私が成長しているように見えたらしい」
ハクは、力なく笑った。
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